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  環境メッセ エコプロダクツ高知2002
     講 演 録 (3)     


「虹は消えない。今、あなたに出来ることから始めよう」


                   サフィニアプラス代表 柳瀬 経子氏
              2002年2月23日 14:30〜16:00


まず最初に、話の中に神という言葉がでてくるが、これは特定の神ではなくて、無く なった父に授ける気持ちのようなもの。 何故、ここに立っているのだろうか?それを知って欲しいので生い立ちから話させて頂 きます。昭和22年8月8人兄弟の5番目として生まれた。父は厳格で、母は近所のバ ラック住まいの人を面倒みたりしていた。そういう人の世話をするような環境に育った。 復員軍人の一人が結核にかかり、そのためか私も小学校の時に小児結核にかかった。そ れを可哀想だと思って、色々と治療されたが、一度お灸をされて500円位のアザに なってしまった。そうした中で8人兄弟の中でどうして私だけが、という思いが生まれ た。 中学に入った頃に、自転車で行っているときに追突され10m以上とばされた。それで も1週間位の入院で済んだ。それでも2年後位に頭痛などの後遺症がでていた。高校の 時には世の中の不幸を全部背負っているように感じていた。 どうして私だけこんな目にあうのか、と思っていた。高校の時手首を切り刻んだりして いた。線路の前に立って蒸気機関車が来るのを待っていたこともあった。そのときも、 知らない人が線路から引きずりおろしてくれた。その人は私を自宅まで送ってくれた。 そういうことを考えると、やっぱり死ななくて良かったと思う。 21才の時に極道の妻になるっかけとして、1月に夫となる人に生まれて初めてあっ て、その日から一緒に暮らし始めた。その彼と出会って、2ヶ月位して彼は警察に捕 まって保釈で出てきたがすでに子供が出来ていた。妊娠7ヶ月位まで働いた。その中 で人間とは弱いものだと思った。その待っている間に色々な事を思い出した。「殴ら れた事」とか「女の人が来た事」とか、色々な思いから待つことすら馬鹿馬鹿しくな り、勝手に離婚届けを出した。勘当という事で家にも寄せてもらえなかったので、離 婚したので、家にも帰れると思って、離婚したのに、家に帰ってくるな、と言われた。 子供もおろせ言われて3回もお金を騙して取ったりした。そんな自分の所に入ってく る言葉はつらい言葉ばかりだった。「殺されるかも」とか、そういう事で落ち込まざる を得ない状態になった。また、死ぬことばかり考えていた。そんなに人間は簡単に死 ねるものではない。生きる方法より死ぬことを考えた方が楽だと思って、死ぬ事にし た。親子心中というニュースをよく聞くが、子供を道連れにしなくても面倒をみてく れると思って、自殺を決行した。 カミソリを手首に当てて、押し当てて引くと傷口が開き真っ白い骨が見えて、意識が 遠のいていった。そのとき、友人が3人見にきてもらって、命が助かった。医者から は、左の手首から先の神経が全部切れているので不自由になると思うけど、辛抱して 下さいと言われた。これだけためらい傷がないのも初めて見た、と言われた。 この2回の自殺未遂が罪深いのかと言うことを後で思い知らされることになった。 子供を置いて、県外に働きに行くことにした。刑務所から出てくる主人と会いたくな いので、高知から逃げるように京都に出た。子供は施設に預けていた。すると、元主 人が時々差し入れに来ているという話を聞いて、やっぱり、あの人も父親だったとい う事を知り、寄りを戻した。そのとき、母親の落胆した顔はよく覚えている。 それから、極道の妻としての生活が始まった。1年か2年かして組のことで主人がも めて、私が指を落としてそれで話をつけようと思った。指を落とすことは意外と簡単 にできた。普通の生活の中で何もできないのではなく、死も指を落とすのも、刺青を 入れるのも意外と簡単。人間は悪くなるのも、良くなるのも意外と簡単。 ヤクザの妻としての生活は22年続いた。夫がヤクザから足を洗わなくてはいけなく なったのが10数年前、それから普通のおばさんになるという生活になっていった。 ヤクザの妻という立場は世間とは違う世界という事で、自分達の中で生きるしかない と思うしかない。普通の生活はできないという思いの中で生活していた。カタギに なったとき、普通の生活ができるという事を喜び、普通の生活の中で色々な事を学び 始めた。そのきっかけがPTAの役員だった。色々な講演会や勉強会の無料な物に どんどんでかけた。松山市が主催する環境の会に出たのが10年位前で、それが小さ な切っ掛けだったと思う。中学に娘が入った時に、人の5倍も6倍もPTAにかか わっていった。そのとき、このままでいても娘が卒業したとき、私がすることがなく なるので、何にエネルギーをさけばいいか、と思った。そのとき、松山市が開催した 女性起業家セミナーに出た。そのとき、仕事とは命をかけるものなんです、と講師の 先生が言って、仕事は命をかけるものなんか、と思った。セミナーが終わって、最後 の懇親会で、せっかく人の税金でセミナーを受けたから、学んだ事を形に残すべく、 OGたちで会を作ることにした。目立っていたので、会長をすることになった。 やり出したら止まらないという土佐のハチキン魂が出て、一つのことを与えられると がむしゃらにしないといけないような気がしてサフィニアの会(サフィニアは花の名 前、横に広がっていくことからこの名前がついた)を作った。勉強会でこの名前を 勝手に使っていいのか、という質問が出て、サントリーに電話した「サフィニアと いう名前を使っていいか聞いた」→使っていいという返事が来た。 それで弾みがついて、女性起業家を目指すという事は自分がするだけでなくて、そう いう人たちとのつながりを持つことだという事で、他の県の色々な女性起業家と出 会った。その中で通商産業局で話す場ももらって、出ていると自分も煽られて自分も しようと思った。店をしたいと思ったのが6月、開店したのは8月だった。 でも、お金も信用もなかった。仕入れの場所も方法も何もわからなかった。人に聞く でもなく、東京を歩きまわって、色々な店をみて松山で売りたいから、という事で 飛び込んで商品を仕入れさせて欲しいと訪ねていった。 浅草で歩いていたら、郷土玩具卸、と書いたトラックを見た。それで待って頼むと 会社に行かせてくれて、迎えにきてくれた。そこで、安く卸してもらうことができ るようになった。このとき夜行バスで東京に行ったが、娘も一緒にきて、闇雲に歩き まわった。そのとき、娘がいなかったら今の自分はないと思う。人間は一人では生き ていけないと思う。色々な人が支えてくれて人は生きているのだと思う。仕入れ先も わからない状態から店を始めるようになった。 このとき、資金がなかった。すると頭を働かすことになる。信用金庫へ金を借りに 行った。担保、保証人を聞かれて無いと言った。すると貸してくれなかった。次に 社債を作って、1口5万円で友達やサフィニアの仲間に頼んで皆がお金を出してく れて、150万円集めた。150万円持って、国民金融公庫に行った。人間は何か をしていることは大事だと思う。サフィニアの会に自分が関係する新聞記事を持っ て、お金を貸してくれるまで返しません、という雰囲気で3時間位粘って、200 万円出してもらった。保証人は自分の娘だった。こういった色々な事を乗り越えて 縁起物の店をすることにした。そのとき、儲けそうな気がして、開運屋という名を つけた。まあまあ何とかいけそうな気がしたとき、事件があって断念せざるを得な いようになった。自分自身が慢心していたかもしれない。サフィニアの会で、河内 さんとう人が「あなたは子供で泣かされることは絶対にないね」と言われた。あな た位、幸せな母親はいないね、と言われていた。それから3日後、息子が「死体遺 棄事件」で逮捕された。奈落の底に落ちるような気持ちだった。その時、自分の保 身を考えた。娘の名前を変えることにした。すると、娘が名前を変えたらお兄ちゃ んが可哀想や、信じんでどうする、と言った。学校の先生が来て、娘さんは絶対に 守りますから学校にこさせて下さい。と言ったので、翌日から行かした。PTAの 会長から役員を辞めろと言われたが、理事会で自分からは辞めないが、辞めるかど うかは皆さんが決めて、と言った。それからも息子の事件をかかえながら、役員を していた。息子はたまたまその現場にいただけだとわかって、逮捕監禁容疑という 容疑を与えられた。そのとき、自分の生き様を神様に見せられた気がした。22年 間極妻やったとき、結構悪いことをしていたが一度も捕まらなかった。それはラッ キーだと思っていたが、自分が捕まるより、自分が乗っているときに自分がしては いけない事をした事を思い出させてくれた。自分の事で親がどれだけ迷惑を受けて いたかを神様が教えてくれたのだと思った。 <ブレーク> (問)空き缶を拾うときに、自転車から降りるがどうしてか? (答)「足が短いから自転車に乗ったまま取れない」 <環境の話へ> これから起業していく人は環境を考えないと駄目な時代に来ている、と起業家セミ ナーの時に教わった。自分が環境について何ができるか考えてみた。それで思いつ いたのがゴミ拾いだった。息子が事件に巻き込まれたときに、社会から自分を締め 出さざるを得なかった。店も閉めたし、サフィニアの会の会長も辞めた。苦しみの 連続だった。その時、ゴミ拾いだけは絶対に続けようと思った。それで、自分は救 われたと思う。一旦言い始めたことだから、ゴミを拾いに外に出ることができた。 それが社会との接点だった。 環境を大げさに考えることではなくて、小さな事でもいいのでは? 自分ができる小さなことから始まって、大きな輪に広げていけばいいのでは? 国連大学のゼロエミッションの国際会議に招待してくれた。フロアからの発言を求 められた時に、何か言っておきたいと思って「ゴミ拾い」に取り組んでいるという 話をした。会場は割れんばかりの拍手だった。休憩時間に木内さんが来て、「あな たは素晴らしい」と言われた。それから、木内さんに松山にも来てもらうように なった。フューチャー500の四国を松山で立ち上げるきっかけにもなった。何で も小さなきっかけが大きな事につながる。小さな事が世の中に変える。 高知エコデザイン協議会はこんな人を呼んで偉い!「髪を黒く染めたら講師で呼ん でもらう」と役所の人が言ったらしい。それに比べてエコデザイン協議会は偉い。 どこからでも攻め込むことが環境には大事。 環境から次のステップに行きたいと思っている。去年12月女性起業家のセミナー で東京、京都でツアーがあった。そのとき、テロについて何ができるかを考えた。 テロも戦争も環境問題もすべて解決するには人間の愛しかない、と思い、NYに行っ て世界平和のメッセージを送ろうかと思う。そういう事を色々な場で言っていたら、 皆が「あなたならできる」と言ってくれた。去年12月環境おばさん柳瀬経子さん を囲む忘年会で茶道で献茶して亡くなった方を弔えばいい、という話になった。 それで、松山で相談したら着付けができる人や、華道ができる人がいて、それで小野 ヨーコさんと一緒にという事で連絡してもらっている。 日本国民は不戦の誓いをした唯一の国で、坂本龍一が「非戦」という本を書いてあ り、連絡先を聞くことができて、手紙を書こうと思っている。自分の思いこみがここ までさせている。皆が思いこんだら簡単に変わっていく。この思いこみの中で環境も 変わっていく!NYのチャリティーイベントも私が成功すると思っているから成功す る。この前、商業会の勉強会を抜け出してアメリカ大使館に行ってきた。でも、思い こみがあるから色々な人に助けられてそこに入ることができた。 思いは必ず通じるということは本当だと思う。 茶道で亡くなった人を弔い、「よさこい」をNYで踊ってもらって、生きている人に 元気になってもらう、そして茶道や華道をわかってもらい、日本は戦いはしないと いうことをわかってもらう。高知のよさこい関係者の人はご協力を、よさこいソーラ ンに人数で負けないように。 環境でできること。 店ではナイロン袋を一切使用してません。これを全部の店がするとものすごく変わる と思う。変わらなくてはいけない。環境は変わる事が前提。こうしたら、こうできる というようにしないと!新しい方法を考えて新しい生き方をしていかないと駄目。い つまでも同じ事をしていたら、地球環境は変わるわけがない。新しい形態のビジネス をするという勇気を持つことも大事。 自分も生活しないといけないが、地球は私達の後の後までついてくるもの。私達は次 の世代から地球を預かっているのだから、死ぬときには綺麗にしてないといけない。 地球を壊す仕事をしているのだったら、徐々にでも新しい仕事に切り替えていくよう にしないと!自分にできるたった一つの事をはじめてほしい。 地球は大きすぎるが、高知から考えればやりやすい。 坂本龍馬の教えをエコデザイン協議会が引き継いでいることになる。坂本龍馬は自分 がしなくてはいけないこと、自分ができることをして日本を変えた。エコデザイン協 議会も自分ができることをしているが、それは日本を変えるものにつながると思う。 一人一人のエコが日本を変えていくと思う。 物事は否定することから始めるのではなく、この世に起きることを是だと思っていく ことが大事。22年間の過ちを否定するのではなく、少年院、少女院の人達にその生 き方を伝えていきたい。私は烙印を押されかけた子供たちに自分の生き方を伝えてい きたい。子供達にも希望の未来が待っていることを伝えていきたい。過ちを犯しても 生き直せることを伝えたい。何人かでも救いたい。 今日のこの日を新しい一歩としていきたい。 私にできること、自分ができる事をすることで世の中は変わっていくと思う。簡単な 事をし続ける事で世の中は変わる。 高知は環境に取り組んでいったら世界一という町になって欲しいと思います。 本日はありがとうございました。
講師のプロフィール  1947年高知県佐川町生。  1998年縁起物専門店コンソーレを開店、現在に至る。  四国女性起業家ネットワーク・サフィニアプラス代表。  著書に元極道の妻であった自身の半生を綴った「人生、なめたらあかん 刺青  かあさん奮闘記」がある。現在では環境分野と女性起業家として日本国内は元  より、今年はロシア、米国へ女性起業家として世界大会への出席予定をしてお  り、幅広く活躍中。 (文責:高知エコデザイン協議会 高村禎二)